昭和43年9月1日 月次祭
御本部参拝の時、頂いて参りました三代金光様のお書き下げの色紙が今私の控えに額に入れておいてございます。以来、私はその額によって日々大変おかげを頂いております。信心の稽古と書いてある。信心を漢字で書いてあとを全部平仮名で稽古と書いてある。もう本当に度のような場合でもどのような事柄でもどのような心の状態の時でもそれを見せて頂きますとはあ、これによって信心の稽古をさせてくださるんだなと。いや、これによって信心の稽古をさせてもらわならんと思わしてもらうのです。お互いが信心をすると言うけれどもね。信心の稽古をしなければいけない。稽古をするからには、一つのめざしがなからなければいけない。どこどこまではと何の稽古でもそんなら、たとえば、剣道なら剣道のこの頃この合楽の少年少女達が中学三年の方ばかりでしたか。剣道の段取りにいくわけです。みんなお願いして参ります。まず、何と言うても剣道を始めたからにはせめて初段になるまでは初段になると二段になるまではと稽古を続けられる限りはそれは私は目指しにするであろうと思います。皆さん、そうでしょう。もうずうっと何時も喧嘩しよるばってん。初段にならんで、めざしならんでよかでん。稽古しよるまではならんですよ。信心の稽古させて頂くものがです。おかげで初段が取れた。取れたら、今度は次は二段を目指してまた、次の稽古を続けるのです。稽古を止めるのがもうこれ位でよかと言うのではありません。ですから、信心の稽古をさせて頂くのです。後のほう聞こえますか。信心の稽古をして帰って頂かなければなりませんが、一言一句聞き漏らしてはならんという私は意欲の元にお話を頂かなければいけんと私は思う。そして私はそのことを持って信心の稽古をさせて頂こうともうそれはやはり私でもさまざまの時があるんです。もういろんなことがあるんです。けれども、ほっと、それが目の前においてある額を見ますとね。もうそれこそ日頃頂いておっても頂いておりましてもやはりそれを見なければ、はっと気づかないぐらいにやはりありますね。とてもとても時々参りよってから、頂かれるはずがなかですよ。ほんなこと本当におかげを頂くといわば、稽古本当にお徳を頂く稽古と私は昨日一昨日だったですかね。どなただったでしょうか。佐田さんだったでしたか。お徳の受けものとをおかげの受けものが違うことを頂いておられるのを聞かせてもらってから、はーほんにおかげの受けものばかり、何時も話ししよったが、又思っておったが、ほんなことお徳の受けものが違ったなあと思うのです。ですから、おかげを受けるためにはおかげの受けものがいる。お徳を受けるためにはやはり、お徳の受けものがいる。ですから、そんなら、おかげの受けものを目指しての信心なら、稽古なら稽古で結構なんですね。お商売をしておる人なら、商売が繁盛するように繁盛する様にと病気をしている人ならば、病気がどうぞ治りますように治ります様にと。家庭のことで悩んでいる人は家庭円満になりますようにと言う願いの元にです。そういうおかげを頂くために信心の稽古をする。先日も私はお話をさせて頂いた中に例えば、お商売をさせて頂く商売繁盛、実意丁寧に心からの、いうならば、親切、それも自分に都合のいいお客さんだけに親切にするのじゃあない。それは、本当の親切じゃあない。それは売りたいばっかりしておる。親切であるから、そういう親切は神様に通じん。もうこの人はもう来てもらんがよかと言うようなお客さんもある。もうこれは何時も冷やかしばかり、何時もねぎらっしゃる。どうも虫がすかん。そういうような人にでも最高の買い物をしてもらう人に対する思いです。私は親切をつくさせてもらうということが、商売繁盛の元だと思う。誰だって親切にしてもらう。真心をもってサービスしてもらうことには気持ち悪いことはなかけん。同じ買うなら、あそこだけでなくて、そういう心が神様に叶うからおかげになることです。人が相手にしないような人でもそれこそ神様の氏子として大事なお得意様としてそれを合掌して頂かしてもらうと言うような生き方、必ず、その人にも通じないはずがない。せっかく買うなら、やっぱりあそこで自分が買いきれん。何時も冷やかしばっかいけん。人に進めるときだけでも、あそこにすすめるだろうとこれは、信心のない世界はそこまでです。ところが、信心をさせて頂いたら、おかげを頂く受けもの、作らならんと言うて教えを頂いてそのような言葉を頂いたならば、ほんにお客さんに対するどくとうをつけおった。このお客さんならとお客さんだけを大事にし、このお客さんはあまり大事なお客さんじゃあないから、粗末にしておったと。そういうことではね。繁盛にもなるまいが第一神様の心に叶わん。信心の稽古をさせて頂いている信者の稽古の受けものがそれでは、くずれる。ですから、私はそれが神様に通うから商売繁盛のおかげになってくる。これは、商売だけのとじゃあない。一事が万事、そうであるね。教えを頂いておかげを頂いておかげを頂いてこういう心の状態にならなければ、こういうふうにこうじていかなければ、こういうふうに信心を頂いていかなければ、おかげを受けられない。おかげを受ける稽古をそれこそ繰り返し、繰り返し教えを元にして稽古をさせてもらう。信心の稽古だけは、おかげの受けもの。その稽古もせずにですね。おかげを受けると言った様なことはこれはいわば、教祖様のお教えにもることになる。ここへは、信心の稽古にくるところである。同時に信心の稽古にくると言うところとはですね。おかげは我が家で受けよとおっしゃることはね。ここで信心の稽古をさせて頂くと言うことは商売をさせて頂いておるものならば、こういう心の状態になれよ。金に不自由して金に難儀をしておる人ならば、こういうような心意気にならねば、おかげはお金の方から、逃げてしまうぞ。こういう状態にあなたがならなければ、たとえば、最近の竹集会とか、敬親会で何時も思う。初めの間は若い嫁さん達はまあ、いうならば、家のばば様はとてもようしてくださるけんというようばってん。終わりには悪口になってしもうとる。腹の中に一*あるもんだから。ばば様だってやっぱりそうだった。嫁ごがようしてくれる用事をようしてくれると言いよるばってん。しまいには泣き出してから、嫁がああするならと嫁の悪口ばっかり言うてしもうておる。そげんだったです。初めはそれがだんだんおかげを頂いて今日はです。本当にそのことをもって稽古しておられる姿が最近の竹葉会に感じます。最近の敬親会に感じます。そのことをもって信心の稽古をしておられる。本当ですよ。そういうです。私は稽古に取り組まないといけない。ここでは、そういうたとえば、そういうことを教えておられるのであるから、家ではもう実際問題と取り組んでです。ここで頂いたお教えを我が家でおかげを受けということは、我が家でそれを応用して教えを応用してこういうときにはこう。こういうときにはああと言うふうに自分の信心生活を改めて行くと言うことがです。我が家でおかげを受けよ。もちろんそういうあり方にならして頂くところにです。ばば様が拝めるようになった嫁ごが拝めるようになるまでになってくるのです。ここでは、もう日々にですね。そういうおかげを受けるための信心と同時にもう必ずと言って良いほど、それをお徳にするもと、それによってお徳を受けよ。それによって力を受けよと。いわゆるぎりぎりの神様の願いと言うところの芯を出してですね。私は皆さんに聞いて頂いているつもりでございます。たとえば、私が皆さんに聞いて頂いているつもりでございます。たとえば、私がさまざまな問題を持って心の中に何とはなしにすっきりしないものがありましても控えに下らして頂いてはあ、信心の稽古。このことによって、稽古させてもらう。そんなら、このことによっておかげを頂くと言う稽古ではなくてこのことによってお徳を受けさせて頂く稽古をさせてもらおうと私は思う。もう信心の稽古が一通り出来ますとですね。いわゆる、おかげの受けものが出来ますとおかげも楽になってくるですよ。それが身についてくる。今日も先程甘木の教会で筑水連合会の一夜信心実習会と言ったようなものがございました。ここからも8名おかげを頂きました。その中に平田さんですか。お話の中に信心を頂くと言うのではなくて信心を頂くのでなく自分のものにしなければいけないと言うようなことを言われたというね。ですから、おかげを受けるこつと言うものが自分のものになってしまう。人となりが受けものがそうなってしまう。楽ですね。そこから、又、さまざまなもちろん問題もございます。そして、こりゃあ、とてもとても力を頂かなきゃあ出けん。この世の中は、人間の真実の幸せは、なるほど、このことはおかげを受けた。商売は繁盛しよる。おかげで家庭も円満である。おかげで健康のおかげも頂いておる。けれども、これだけで人間の幸と言うことは言えない、と言うことが分かってくる。ところがです。結局、今度はお徳を受けるための受けもの、お徳を受けるための信心の稽古がなされてくる。この辺からですね。信心が少し、どういうことになってきましょうかね。心が勇んでこなければなりません。心が勇んでこなければ、お徳は絶対頂けません。心が勇んでくる。心がね。生き生きとして何時も神様の方に向かっておる。今日あちらに行かれてから、高橋さんが指名で発表されなければならなかったときに一にも神様、二にも神様、三にも神様と言う生き方でおかげを頂いておると言うようなことを話された。正しく、そういう生き方をなさっておられると思うですね。いわゆるばく進型です。この頃竹葉会で奥さんが見えてから、一時の御祈念といっしょに頂きよった。ところが、私は後から聞かせて頂いたのですけれども、高橋さんから、初め御祈念させて頂いていたら、ばく進ばく進と胸に入ってきた。耳がまようたかと思ったが間違いなくばく進ばく進と言うお声を頂いた。**目の前にばく進という漢字が交換できた。ばく進、汽車がばく進したと言うでしょう。あれです。ところがそのばく進と言う字がですね。ずーっと御神殿の中に吸い込まれて行くように入っていくところを頂いた。私はそれを聞かして頂いて体がぞーっといたしました。ばく進いわゆる勇みに勇んでやらなければ、できるこっちゃあない。どのような場合でもそれがおかげだ。まあ、蹴散らかしてと言うほどの勢いではないでしょうけれどもです。それがおかげだと、それが一切おかげだと受け入れれる。はーてどうしましょうか。それおあげだぞと確かにおかげにしておられます。それには困ったねと言うたら、もうおしまい。それはばく進じゃあない。そういうですね。やはり、ばく進型、いわゆる心が勇みに勇んでくると言う信心によってどっこいと受けて前に進んで憩うと言う信心。皆さんお徳の受けものはここ以外にはありません。もちろんなら、そういう勇みに勇んだ心がです。どう神様に向こうて行かなければならないか。そこを稽古して行くわけなんですよ。皆さんの信心はどうだろう。稽古をおかげを頂く稽古が出来ておるだろうか。先程申しました合楽の3人の少年少女会のほとんど毎日日参して来ています。その日の3人のそのことをお届けしてから、お願いして参ります。又、帰りに言いよりました。おかげで3人が3人とも初段のおかげを頂いた。はあ、これから、2段を目指さなあいかんね、と言ったことです。ですから、皆さんの信心もおかげを頂く受けものを例えば、そういう受け方、そういう自信を作った人はです。もういよいよ本気でお徳を受けさせて頂くという信心の体制を整えなければいけないと思うね。ここでは、もうお徳を頂く話ばっかりです。だいたい言うたら、何ぜというたらでなかったら、神様の願いどうぞ。信心しておかげを受けてくれよと言う。おかげになってないから、商売が繁盛氏とらんなら、神様は喜ばれるはずがなか。家庭が睦まじいないなら、神様は喜んでくださるはずはなか。神様は悲しまれるはずはないです。けれども、本当に身に徳を受けて家に徳を受けて、それが子孫にも残り、あの世にももっていけれるというようなおかげを頂いてこそ、はじめて神様が今朝の御理解でいうなら、会心の笑みをおもらしになるときであるね。どうでしょうか。みなさん。おかげを頂きたいならば、まずおかげを受ける受けものを作りなさい。そのおかげの受けものを作ろうともしない人がお徳を受けようと言うことはまず出来ません。まあ、私ここではっきり言うならばですね。月並祭にお供へ位の人は絶対おかげは受けられません。受けておるおかげは全部借金があるようなおかげです。取り次ぎ金光大神のね。お徳によって御神用によって頂いておるだけのこと。いうならば、取り次ぎ者を利用しているだけの信心、これを分かりやすく言うならばですよ。層でしょうが、月に4回ぐらいにしかも日頃頂いておるおかげのお礼を申し上げなければならないという月並祭にですよ。しかも日中に歩きよるではない。もうあれも済まさせこれも済まさせて頂いて一時間か二時間少し仕事を切り上げて今日のお礼のお祭りをさあお礼のお参りをさせて頂く。さあ、一家でというような私はおかげを頂かなければならない。このお祭りがですよ。お祭りにただバスに乗ってこなあならんことでおかげ受けられるはずは、絶対ない。これは、おかげを受けられる器が出来ていない証拠なんです。まず、そこに一回やりなおさないかんですね。皆さん、そればってん、おかげを受け取りますと言う人はそれは、言うならば、借金になるようなおかげ親先生にご苦労ばかりかけどおしのおかげ、金光大神の御信用でおかげの受けものにはならない。それくらいのことでは、思いのこめ方がもうすでにおかげでなかです。まず、一つおかげの受けものを皆さん作らなければいけませんよ。いわゆるきちっとしたおかげを頂くためにはきちっとした信心をしなければならんと言われておる。節度のついた信心、これだけは誰が何と言ってもきちっとしておこう。私は今日月並祭と言うことだけではないですよ。これ位の頃がこんなにも出来ないものが、自分におかげが受けられるはずがないとまず思わなければ、いかんです。そうして受けよるならば、今は借金になっているような借金で死んだならば、神様から借金取りに死んだ先まで来られるこだるおかげであと悟らして頂いてです。受けものを持って頂くところのおかげを頂いてもらいたいと私は思う。次に私はもうたとえば、そのひ、出来とる人がたくさんありましょう。もう自信たっぷりの人がある。おかげはもうこの程度で頂ける。信心はこういう心の状態になれば、おかげが頂ける。それを私は最近は腰掛信心と言うておる。もうおかげを頂くという知らんものは知らんと言ったもんだから、そこんまでの車は知っておる。だから、****信心も腰掛の信心ではそこまでの信心、それがそして長く続くとは思えない。なぜってこの神様はさっさと生きてござるから、さっさと前に前進しておられるから、いわゆる言えば立て立てば、歩めと言う親心であるから、親神様である以上、そういうことをいつまでも終わりにはおかげを受けられんことなったことに必ずなりましょう。ですから、私どもはおかげの受けものにいたしましてもです。もっときちっとです。おかげを頂かしてもらう。それがね。そこまでであるときには信心が億劫になるんですよ。もう腰までたたんようになってくるですよ。**おかげを受け取るとそういうときこそ大事にしていかなければ、いけん。同時に私はもういっちょうあるですよ。それは、日頃の信心、あの人は朝4時から、しかもあの夏の祈願の時にはもうみんなもう一時に参って来て御祈念してござる。もう、はげしござるけんで、もしおかげ頂けてござるなら、自分も信心しようと言う。こっちのほうはただ、お参りしておかげを頂いてござる。あれでおかげ頂けるなら、***そういう信心を日よりの信心と言う。信心させて頂いておることではありますれども、まあ、例えば、私どもがどういう信心をさして頂いたら、一番ありがたいか、ありがたい信心をせなければいかん。それには、やはり心が勇む。お繰り合わせを願わねばいかん。心が勇みに勇んでおる。今日のお供えの中にいろいろのお供えがあった。その前に4合ビンの黒いビンが供えてある。あれは、キッコーマンのねつえんと言う醤油。塩を蒸してあるというわけである。あれは普通こちらにはないそうである。あれは東京から、こちらに送って頂いた。いわゆる糖尿病やら、腎臓病やら、塩をあまりとったらいけない人の使う、言わば、お醤油なんです。ねつえん、これは人間が例えば、甘かものもとらん。塩かもんも取らん。これぐらいきついことはないですよ。本当皆さんは自由自在に甘いもんであろうが、辛いもんであろうが、頂けておるということは実にありがたいことですよ。ところが、こっち***何かと言うたら、朝鮮人参、先生元気付けよ。***これ飲んでどうするかと思うたけれども、神様は元気をぬかそう。元気をつけようと言うそういう働きを私は感じます。片一方には、いわゆる、物資ほうきょうというかね、私をめつして行く私をもやしに行く。無くしに行く。そこにはね。たとえば、甘いものを取るらんとか、辛いものを取られんとか、そんなことは全然問題じゃあないんだという修業なんだ。断食するわけじゃあない。これはどこまでも修業と言うのは、私をむなしゅうするために修業するもの。たとえ、ふとこっちのほうからは、朝鮮人参、朝鮮人参でも飲んで元気をつけよう。私はそういう働きがですね。私どもの上にあっておる。決して神様はですね。もう本当に何と言うかね。苦しいことばかり思うておるものではない。苦しいことでもものともせんような信心をさせて頂くのなら、ちゃんとこちらには本当にもったいないようなおかげをちゃんとくださっておる。石段がある。50段も上れば、そこにはちゃんと広場があって一服出来るような広場があるようなもんじゃ。信心は山登りと同じだとおっしゃる。もうそれこそ、息が切れるような思いでの山登ることばっかりじゃあない。それがだんだん登って行けば、いくほど、幸せがある。ありがとうなる自分の心が豊かに広う大きくなってくる。その楽しみがある。私はお徳の世界、お徳を受けて行く世界、それは丁度山登りの様なものだと私は思う。そこでお徳を受けて行く世界には何がまず必要かと言うとです。私の心の中に勇みに勇む心が必要である。苦し紛れにですね。やっと、信心しよることでは、決してお徳は受けられません。これは私の体験から、それは、はっきり言える。どういう難儀な中にあっても心が勇み勇んでおる。そういうお繰り合わせをまず、頂かねばいけませんね。皆さんおかげを頂きたい。おかげ頂きたい、と願ごうておる人はまず一つお願いをしてもら様るち。お月並祭位には先生の顔にもお参りせなければ、すまんけん。お参りしよることぐらいなお月並祭の参拝ではやはり、おつき合いではおつき合いのおかげしか頂けん。お月並祭には本当に一週間にいっぺん本当のお礼のお祭りとしてです。お礼参拝が出来る様なさあ八時の御祈念に間に合うようにと勇みに勇んだ心でお参りしてくるようなおかげを頂かなければ、おかげの受けものはまあ、そういう所から手始めに一つ身につけていかなければいけない。それだけのこっちゃない。そして、おかげの受けると言うものが、おかげはこういう生き方、あり方でおかげを受けられると言う確信が出来たなら、人間の本当の幸せを求めて神様の本当の願いをはからしてもろうて神様の願いにそわして頂こうとする信心を頂かなければいけない。御霊様に申しましたが、信心の稽古、そういうことをですね。私はそのことを持って信心の稽古をさせてもらう。そのことを持っておかげの受けものを作る。このことによって徳の受けものを作ろうと。私はいうような、そういう稽古を皆さんしておかなければ、いけないと私は思う。お話を頂いて本当に一つおかげの受けものを作ろうと皆さんが思いなさる。これは、本当にお取り次ぎを頂いてお願いしておかげを頂かしてもらうと言うだけのことではなくて、お取り次ぎを頂いて信心を頂かしてもらい、信心の受けものとしておかげを受けていこうという生き方、そういう頂いておった信心がだんだん自分のものになって自分のもんになって血や肉になってしまって、そこから、お徳を頂かして頂こうと言う心が成長してくる。そこにどうでも必要なものは、勇みに勇む心が必要、だから、心の中がどうぞ形のお繰り合わせより心のお繰り合わせを願えというわけはそこなんです。心の上にお繰り合わせを頂きたい。心の上に元気がでますように心の上におかげを頂かして頂くようにそこから肉眼をおいて心眼が開けてくる。そこから、人間の本当の幸せと言うものがある。肉眼で見ておった世界はそれこそ苦しい。いわば、この世がこの世と見えておったのが、そうではない。この世こそ、極楽の世界であると言うことが見えてくるようになると信心もいよいよ楽しい。どうでしょうかね、皆さんのまあ、胸に手をおいてみて信心の稽古、そのことに世って信心の稽古をしておる人。そのことによってお徳受ける稽古をしておる人また、それ以外の人、それによっておかげを受けようとただ、神様にお願いします、お願いしますと言うおかげを頂くことを思うておる人。とにかく、信心がね。楽しゅう、うれしゅう出けるようなおかげを頂かなければ、いけません。皆さんの信心はどうでしょうか。日よりの信心ではなかろうか。もう、これ位でと腰掛の信心ではなかろうか。どうでも、私は合楽の信心、これは言うならば、私の信心、私の信心はもうそれこそ、高橋さんの言葉ではない。けれども、それこそ、一にも神様、二にも神様、三にも神様と進んできた。私の神様。ですから、ここでおかげを頂くならば、結局それを神習うていくしか他にないのだ。それこそ、型の上にはお徳を受けるように修業をさせられておる。それなのに元気な心が出来ないとするなら、こんなに切ないことはなかろうかと思う神様に求められておる。そういう切実な修業を頂きながら、それをやっとかっと受けておるようなことでは、勇みに勇む心がなかった人ではいけない。まず、自分の心の上に型のお繰り合わせよりもおかげを頂くことよりもおかげを受けさせて頂く受けものを作らせてくださいと言うような願い。そこには、必ず、神様の喜びある。それが響いてくる。そこに信心が楽しゅうなってくる。どうでこのことをもってお徳を頂かしてください。これによって一つの受けさせてくださいと言うようなことに直面しておるならば、そこんところをです。私はお徳を受けさせて頂く。これをお徳にして行くと言うために本気で一つの神様の前にばく進、ばく進他にはない。一にも神様、二にも神様、三にも神様、神様以外には何にもないと言う信心。一には自分、二には人に頼る、医者さんに頼る。そして三番目が四番目ぐらいに神様に頼む。これでは、もう本当に合楽の信心から脱落するより他ないです。この信心では、それがあのね、おかげうけられんことではないですよ。今日あちらに行かれた話を聞くと言わば、そういうところの話ばっかりだから、合楽の話だけはもう充分。どうして、わからんとなさらんだろうかということが話題になっておる。合楽では、どこまでもそこんところをですね。皆さんのものにして行かなければ、昨日皆さんがここを出発されるのにあたって私は御祈念させてもらった。それで合楽の信心と言うものを先でおそらく一人一人が話をしなければ、ならないときにです。こうなさならんではないけれども、どうまとめておるか自分の信心を、又、合楽の信心をどう頂いておるかと言ったようなことを一時間ばかり検討しあいましてね。そしてその事を私例えば、それを聞いてもね。この頃信心の研修会は秋永先生が行ってお話をした。誰もそんなこと思わん。それは心有る人はです。帰りには自分と秋永先生といっしょに車に乗せて来たが、あんたがおかげ頂くはずじゃあなー。そんな信心しよるならとこう言われた。ところが、その場では誰も秋永先生合楽の信心は、すばらしかなあと言う人は一人もなかった。そんなことはとても出けん。そんなことはありえないとこう言うておる。思おうておる。それが響いて来るけん。もう言わんがよか。それでも、私は信者に申しました。それでも話さなきゃいけん。あなたの方のためだけじゃあない。後で後でおかげ頂いた時にです。本当に合楽の話がそげんな話をしたら、あなたの言う通りであったと言うようなおかげに後からなってくるであろうから、本当の事を言わないといかん、と言うて御祈念させて頂いた。漢字で頂いた。ですから、伊太利ということは伊は人、自分以外のものということ、人はね、どういう素晴らしい話をしてもです。私はこう言う信心してこういうおかげを受けたと。しかもそれが太であり、利である。太くして大きなおかげでなからなければ、ほーそうですかと聞かんということ。だから、あなた方が七人一家、七人一人一人がね。今合楽で頂いておる。お教えをあなたがたのものにしてあなた方がいよいよ太く大きなおかげ頂かなければ、みんなは聞かんということであった。本当にはあ、なるほどあなたの話聞かしてもらってありがたかったといわん。今底を神様が頂いてくれよと言うてござる。私、昨日どなたかに話するとき話しました。私が本当にもうこうしてから私はほんな事教会ごやしになければならんと言う。***こっから先に求めてあなた方が参るけん。にぎわうけんで言いよるでないよ。あなた方一人一人が本当におかげを頂いてもろうて先生本当にこのようなおかげを頂きましたと言うようなおかげを頂いてもらいたいばっかりに言うておる。言うて話したことでした。けれども、いくら言うても言うても聞かんなら、仕方がない。これは私が言うことをきかさならんとじゃけん。結局それによっていよいよ私は信心の稽古させてもらうほかないのだ。けれども、聞く耳を持っておる人があなら、本気でその気にならせて頂いておかげのうけものをまず作ろう。お徳の受けものをまず作らせてもらおうというようなね。私はおかげを頂いて、それこそ伊太利のおかげを頂いて太い大きなおかげを頂いてもうその日その日の立ちゆきを頂けば楽じゃとそりゃあもうそれどころじゃあないけれど、それはいよいよ苦しい人、どうにもにっちもさっちもいかない人、そういう人に対してくださったお教えなんです。それでもお願いをしていきゃあ、その日その日が素晴らしくやっていける。その日その日が立ち行けば、楽じゃあ。その中におかげの受けれる受けものを作っていけれるお徳を受けれる受けものを作っていけれるのが神様の願いなんです。その日その日がやって行けるけん。もうそれがおかげでござる思いではいけん。自分の例えば、頂けるお教えがです。本当にそのまま血になり、肉になって行くような私は働きをね。現わして行かなければ、いけないと思うんですよ。腰掛けている人は立ち上がってください。昼寝をする人はどうぞよそへ行かず、合楽に行ってください。私を見てください。いよいよばく進を言わば、願われている人、本気でお徳を受けて行こうと言う人。それはいよいよお徳を頂いて行くためには人間の真実本当の幸になっていくためにはというようなところを追求しながら、その信心を見つけて行こうとする。私は願いにたたなければならんためにはどうぞ形のお繰り合わせよりも心のいよいよお繰り合わせを皆さん願わなければならないと思うのでございます。どうぞ。